自己紹介2
こんにちは。
おおまかな自己紹介は前記事に書いた通りです。
今回は、なぜ私がうつ病になったかをご紹介しようと思います。
長文になると思います。
私は母子家庭で育ちました。父の顔や名前すら知りません。
しかし、父親がいないことへのコンプレックスは今まで一度もありません!
母が自由に育ててくれたからだと思います(^^)
今まで母から何か言われたことはありません。
高校を決めるときも、大学を決めるときも、教員になることも全て事後報告でした笑
それに対して私の母は
「そうなの、いいんじゃない。」
と答えるだけでした。
私が自分で決めたことに対して母は何も文句を言いませんでした。
今考えれば、母子家庭なのに大学まで卒業させてくれた母には感謝しかありません。
母のことはこのくらいで…(^^♪
私は高校も大学も第一志望の学校へ一発合格。
さらに教員採用試験も教育学部出身でないにも関わらず、希望自治体へ一発合格。
…と、ストレートで何事もうまくいっていました。(自慢ではありません笑)
今までの人生で「挫折」というものを味わったことがなかったことが、今考えればうつ病へと繋がったんだなと思います。
教員1年目…右も左も分からない状態で中学1年生の担任を持ち、校務分掌で生徒会も任せられる。
何事にも「全力投球」がこの当時の私のモットーでした。
生徒と接することはもちろん、担任業、授業、部活、生徒会、初任者研修、その他諸々、全てを完璧にこなそうと毎日が必死でした。
休日返上で部活をし、残った時間は授業づくりやテスト作成、採点など、休まる暇もありませんでした。
しかしそれでも時間を作り、友人と会ったときや実家に帰ったときなどは
「毎日が充実している。うまくいっている。」
と強がっていました。
そんな毎日でしたが、3学期に一度学校で過呼吸になり倒れてしまいました。
今考えれば、そのときから心身ともにボロボロで、毎日が自転車操業、いや回ってすらなかったんだと思います。けど、弱い自分を認めたくなくて、だれにも見せられなくて、一人で寝る前にたまに泣いていました。
教員2年目…持ち上がりで中学2年生の担任をする。校務分掌で生徒会に加え文化祭担当も任せられる。
2年目の私も最初は「全力投球」でした。それに加えて、この年は勤務校の教員が大異動した年で、私しか若手がいなくなってしまいました。
私が一番の若手で、2年目でもあることから、なんでもかんでも任せられるようになっていました。私は周りにいるベテランの先生方を頼ればいいものを、また強がって一人で何でもこなせるように必死になって動いていました。
自分で勝手に「私が動かないと誰が動く!!」と、変な責任感を自分に植え付けていました。
2年目になってから心身に変化が見られてきました。
まず訪れたのが「月経不順・月経過多」
1か月以上月経が続くときもあれば、2日で終わってしまうこともありました。月経過多だったので毎日バスタオルを持ち、貧血でつらいけど経血が漏れるのが心配でなるべく座らないようにしていました。いつかの学年集会のときに座らざるを得なくて、座ったら案の定漏れてしまい、殺人現場のようになったときもありました。(持っていたタオルですぐに拭いたのでバレませんでした。)
次に訪れたのが「希死念慮」
毎日行きと帰りの道で車の中で泣きながら運転していました。
「このままトラックが突っ込んでくれたら、学校に行かなくていいのに。」
と毎日のように思うようになっていました。
そして「食欲不振」と「不眠」
何かを食べる時間があれば眠りたいと思うほど毎日疲れ切っていました。しかし眠りについても夜中に泣きながら目が覚めることがしばしばおこるように。
最後に訪れたのが「腰痛」
ある日突然腰痛で立てなくなりました。横になっている状態でも痛みがあり、お休みをいただきました。整形外科に行きましたが、特に骨に異常はなく、病名をつけるなら「腰椎分離症」と言われました。そのときの整形外科の先生に「今の仕事、どうなの?」と聞かれると、涙があふれて止まらなかったのを今でも覚えています。
そんなことがあり、腰痛で立つことも困難になり数週間の病休をいただき自宅療養することになりました。
が、お休みに入って2~3日で腰痛は治り、ずっと続いていた月経過多もピタッと止まりました。動けるようにはなりましたが心にモヤモヤがずっとあったため、念のため精神科へ行きました。すると、
「あなたはうつ病です」
とはっきりと言われ、なんだかホッとした自分がいました。
以上が私がうつ病になった経緯です。